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特集「首里散策?vol1.世界遺産を訪ね歩く?」

多くの文化遺産を有する首里。初回の首里散策は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」に登録された首里城跡・玉陵・園比屋武御嶽石門の3つの世界遺産を訪ねてみました。

沖縄の歴史と文化の象徴・首里城

今から約570年前(1429年)に成立し、約450年に渡り日本の南西諸島に存在した琉球王国は、中国をはじめ、日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋王国へと発展しました。そしてその政治・経済・文化の中心となったのが首里城です。沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものであります。

首里城は内郭と外郭からなり、御庭と呼ばれる広場に面して立つ正殿・北殿・南殿などの建物は内郭に集中しています。内郭には瑞泉門・漏刻門・広福門・奉神門・右掖門・左掖門・淑順門・美福門・白銀門など九つの門が、外郭には歓会門、久慶門など四つのアーチ門があります。

正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としています。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つです。中国や日本との長い交流の歴史があったため、随所に中国や日本の建築文化の影響を受けています。正殿や南殿、北殿はその代表的な例です。

城郭の外側には、綾門大通が伸び、第一坊門の中山門、第二坊門の守礼門が建ち、城の北側には、園比屋武御嶽石門、円覚寺、弁財天堂、円鑑池、龍潭など、琉球建築の粋とも言うべき遺産が建ち並んでいました。現在でも、中山門以外は修復や復元を繰返しその姿を残しています。

首里城は、1453年の「志魯・布里の乱」での全焼から始まり、1945年の沖縄戦ですべてを焼失するまで、過去4度に渡る消失を繰返していますが、その都度再建され今日に至っています。
1992年、戦後47年目にして復元された首里城は18世紀以降をモデルとしています。

2000年12月、首里城跡は、他の8つの遺産群(今帰仁城跡、座喜味城跡、中城城跡、勝連城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)とともに『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として、日本で11番目の世界遺産に登録されました。

尚真王が眠る陵墓・玉陵(タマウドゥン)

たくさんの観光客で賑わう首里城公園とは対照的にひっそりと佇む玉稜。一歩中に入ると、緑に囲まれた陵内には静かな時間の流れと独特の威圧感を感じます。

玉陵は、1501年(尚真25年)、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築いたもので、第二尚氏王統の陵墓となりました。
墓室は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋、創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には墓前の庭に記されている限られた家族が葬られました。全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。
沖縄戦では、東室、西室が破壊されるなど大きな被害を受けましたが、3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。

2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡、玉陵墓室石牆が国の重要文化財(建造物)、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財(彫刻)に指定されています。



往路帰路の安泰を祈願した園比屋武御嶽(ソノヒャンウタキ)

園比屋武御嶽は、守礼門の後方左側の道端にある石門とハンタン山一帯の森のことを言いました。この御嶽は、王府の行事で東方の拝所を巡礼する「東御廻り」をはじめ、各地を巡航する旅に出る際に国王が必ず拝礼した場所でした。また、聞得大君の就任の儀礼である「お新下り」の際、最初に拝礼した国家の聖地としても知られています。

扉を除き全て石造の平唐破風門ですが、両妻飾りに懸魚(げぎょ)の彫刻を取り付けるなど木造建築の表現を取り入れています。
創建は1519年頃と言われますが、現在のものは沖縄戦で一部破壊され、1957年に復元されたものです。
 現在、国指定重要文化財となっており、2000年には世界遺産に登録されました。